伊達政宗の出身地は?どんな活躍をしていたの?
奥州筆頭、伊達政宗!
…なんていうけど、伊達政宗の出身地はどこなの?
伊達政宗の出身地は出羽国。米沢城というお城で生まれたよ。
米沢城といえば山形県だね。
ここからどうやって政宗は有名になっていくの?
では、今回は政宗の歴史を簡単に振り返ってみよう!
1567年、出羽国米沢城に生まれた政宗は『梵天丸(ぼんてんまる)』と幼名を名乗ったよ。
まだまだ織田信長の権力も確固たるものとなっていない、まさに戦国時代まっただなかという時期に生まれたんだね!
そう。ちなみに政宗が生まれたころは伊達家は、政宗の祖父・晴宗と父・輝宗が対立していて大変だったんだ。
もともと伊達家は奥州で勢力を誇っていた一族なんだけど、伊達家内で争っている間に他の大名に領地を奪われるなどして勢力に陰りがでてきてたの。
そんな伊達家を救ったのが政宗なんだね?!
そう!
政宗は14歳で初陣を飾り、その3年後に17歳で伊達家の当主となるんだ。
そしてこの翌年、伊達政宗の名前を奥州に轟かす事になる戦をするよ。
俗に『小手森城の撫で切り』っていわれる戦でね、政宗は老若男女問わず城内の人間をなで斬りにして敵を完膚なきまでに殲滅したんだ。
うわ〜恐ろしい事を!
人気武将の闇を見てしまった気分!
その城は伊達家を裏切った大内定綱という男の城だったんだ。
裏切り者は許さない精神もあったと思うけど、『伊達政宗を敵に回すと怖いぜ〜』っていうアピールもあっただろうね。
近隣の大名達はとてもビビったらしいぞ。伊達政宗、こいつァ危険だ!って。
意外にも冷酷というか、怖い人だったんですねぇ…。
そしてここからも政宗の快進撃は止まらない!
『人取橋の戦い』では有力大名であった蘆名氏、佐竹氏を中心とした反伊達連合軍と戦って勝利。
有力大名を破った政宗の評価は右肩上がり、これ以降、多くの武将達を伊達家の味方につけて勢力を拡大させたんだ。
へ〜!
その後、調子のってきた政宗は隣国の最上義光(もがみよしあき)とも戦をする事になるんだけどね、
この最上義光、実は伊達政宗の母・義姫(よしひめ)のお兄さんなんだよ。
政宗は身内にも牙を向いたんだ?凄い野心!
でも結局、この戦は政宗の母が止めに入った事でドローとなったよ。
自分の息子とお兄ちゃんが戦するなんて、たまったもんじゃないもんね。
戦国時代じゃ親子や一族で揉めるのも珍しくはないんだけどね。
妹が戦場まで乗り込んで、戦を止めたっていうのはなかなかレアかも。笑
んで、この後、『摺上原の戦い』ではこれまた蘆名氏と戦い、完全に蘆名氏を滅ぼしたんだ。
これによって政宗は奥州でほぼ敵なし。
ここで『奥州筆頭!伊達政宗!』なんて言われる凄い大名が完出来上がったってわけ。
しかも政宗はこの時24歳!
若い〜!凄い〜!
しかし、ここまでが政宗の快進撃。
この後すぐ、天下を狙う豊臣秀吉に屈服することになってしまうんだ。
政宗は最後まで北条氏と同盟を組んで秀吉に反抗してたから、奥州仕置きによって領地を減らされてしまったんだよね。
まあでも、助かっただけありがたかったかもね。
北条氏は反抗しすぎて滅亡しちゃったもんね。
そう、それからは豊臣政権の一員として朝鮮出兵に参加しているよ。
そんで豊臣秀吉が死去した後に起った『関ヶ原の戦い』では東軍・徳川家康の味方に付いてる。
関ヶ原の戦いで政宗はなにをしてたの?
西軍の石田三成と戦った?
戦っていないよ。
その時、政宗は関ヶ原の地にはいなかったんだ。
奥州に残って、西軍の武将と戦をしていたんだよ。
『関ヶ原の戦い』と一言でいってもも、色々事情があるんだねぇ〜。
そうそう!関ヶ原の戦いは奥が深いんだよ〜!
まぁ、詳しいことはまた別の項目で…。
ウム!
んで、政宗はその後、戦国時代最後の戦『大坂の陣』にも参加しているよ。
あの有名な真田幸村と戦場で戦ったんだ。
ちなみに、伊達政宗は徳川軍、真田幸村は豊臣軍だよ。
最終的に勝ったのは徳川軍だけど、伊達政宗は真田軍の怒涛の攻撃に押され、兵を後退させられたりしてたんだって。
真田幸村って強いんだねぇ。
伊達政宗の戦いの歴史はザーッと、こんなもんだね。
江戸時代に入ってからは、徳川幕府の方々と良い関係を築き、仙台で平和に暮らしていたとさ。
伊達政宗は戦国の世を上手い事生き抜いてきたんだね〜!
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