織田信長、豊臣秀吉、徳川家康…戦国時代の歴史を簡単に!
戦国時代の歴史を教えてほしいな〜って思うんだけど、日本は広いしそう簡単には説明できないよね??
そうだねぇ〜、一口に戦国時代と言っても九州や四国、関東…と各地で事情が違うからねぇ〜。
でもやっぱり、戦国時代といえば織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑が中心になっていたんじゃないの?
うんうん、はずせないメンツだよねぇ!
では、今回はその3人を中心に、すっっごく簡単に日本の戦国時代の歴史を追ってみよう!
イエス!
織田信長の戦国時代の歴史の流れを簡単に!
まず、織田信長…
信長が織田家の当主になった頃は、尾張一国も統一してない小勢力だったんだ。
けど1560年に『桶狭間の戦い』で、当時日本屈指の大大名だった今川義元を討った事で、信長は一躍有名人となり、ここからメキメキと頭角を現していくことになるよ。
ふむふむ。
その後、織田信長は近江の浅井長政や、三河の徳川家康と同盟を組んで、近隣の敵対勢力と戦っていくんだけど、
これがとってもいい感じに進んで、信長はどんどん勢力を拡大させていったんだ。
で、調子づいた信長は、足利義昭を将軍に奉じて上洛(じょうらく)することを決める!
上洛ってどういう意味?
上洛っていうのは京都へ行く事だよ。
戦国時代、政治の中心は京都にあったんだ。
京都へ行って、天皇や将軍といった国の権力者と関わりを持つ事は、大名達のステータスだったんだよ。
なるほど。
権力者とつるんでビッグになるチャンスを掴もうとしていたわけだ。
そんな感じだね。
信長の場合は足利義昭の名を利用して、自分が天下人であるかのように権力を強めていったんだ。
足利義昭はそれでいいの?
将軍なのに利用されるなんてプライドずたずたやん?
そう、もちろん足利義昭はそんな現状を良く思わなかった。
下剋上ブームで将軍家の立場が弱かった時、織田信長が支援してくれたから足利義昭は将軍になれたわけで、多少の横暴は我慢してたんだけど、
『このままだと信長に将軍の立場を追われちゃうかもしれない!信長にこれ以上好き勝手されてたまるか!』
ってな感じで不満が爆発しちゃうんだよね。
そりゃそうだ。
で、足利義昭は、浅井長政や朝倉義景、武田信玄、本願寺の勢力らに声をかけ、織田信長を倒す計画を立てる…!
↑こんな感じで、信長は周りが敵だらけの厳しい状況に陥ってしまったんだ。
うわー!これはキツイ!
そして武田信玄って凄いね…!
そう、キツイし武田信玄がかなり厄介!
…なんだけど、これから皆で信長やっつけるぞー!って時に武田信玄が病死するんだよね。
おぉ〜ッ!
武田信玄という強敵が脱落した事で、信長は背後を気にする事なく他勢力に集中できるね!
そう、信長は苦戦することもあったけど、見事にこの敵勢力を駆逐していったんだ。
で、将軍・足利義昭のことも許すことなく京都から追放して、足利幕府は完全に滅亡。
大ピンチから一転、信長は日本の中心部を支配下に置く大大名になったんだよ!
こりゃ凄い達成感だったろうねぇ。
ね〜!
で、織田信長はこの後、天下統一に向けて中国地方、四国地方の制圧に取り掛かるんだけど…
1582年に本能寺の変でこの世を去ってしまうんだよね。
織田信長の時代は終了か…。
次は豊臣秀吉の時代だね!
豊臣秀吉の戦国時代の歴史の流れを簡単に!
本能寺の変で織田信長を倒したのは、ご存じ有名な明智光秀!
で、この明智光秀を倒したのが豊臣秀吉なんだ。
本能寺の変が起こった時、豊臣秀吉は中国地方の毛利氏と戦をしてたんだよね。
そう、秀吉は信長の訃報を聞くと、すぐさま戦を中断して京都へ兵を進めたんだ。
この素早い行動のおかげで誰よりも早く、織田信長の敵討ちができたというわけさ。
この功績によって、秀吉は織田家家臣団の中で存在感を増していくんだけど、これをよく思わないのが柴田勝家(しばたかついえ)という武将…!
たしか、柴田勝家は織田家トップの家臣なんだよね。
そう、織田家筆頭!
柴田勝家はキャリアもあるし、織田家内でも発言力のある武将なんだけど、信長の死後は秀吉に押されて段々と立場が弱くなっていくんだ。
『清洲会議』と呼ばれる織田家の後継者を決める会議でも、勝家は秀吉に負たんだっけ?
勝家は信長の三男・信孝を推したけど、秀吉が意見を押し通して信長の孫・三法師が当主に決まったんだよね。
そう!
秀吉は幼い三法師を当主にして、自分が三法師を支えるという形で、織田家の政権を取り仕切ろうと企んでいたんだ。
勝家はそんな秀吉が許せず、二人は対立していく…、
険悪ムードは続き、ついに両者の間で『賤ヶ岳の戦い』と呼ばれる戦が勃発するんだ。
で、豊臣秀吉がこの戦に勝利。
柴田勝家は切腹してこの世を去る事に…!
柴田勝家がいなくなったことで、織田家内には秀吉に反抗する人がいなくなったんだね。
ついに秀吉は織田家を乗っ取っちゃったというわけだ。
そういう事になるね。
あくまでこの時点では『豊臣秀吉は織田家の家臣』だけど、信長の息子達や三法師では織田家家臣団をひっぱって政権を取り仕切る事ができないからね。
この後、秀吉が偉そうな顔してるのが気にくわない織田信雄(おだのぶかつ:信長の次男)が徳川家康と組んで『小牧長久手の戦い』で秀吉を討とうとするんだけど、結局秀吉には敵わなかったし。
豊臣秀吉は『小牧長久手の戦い』を和睦して終わらせたんだよね。
織田信雄も戦にウンザリしちゃったから豊臣秀吉の言うがままに和睦してしまったとか…。
そうそう。
秀吉の言うままに和睦をしたから、完全に織田家は秀吉の下につく形になっちゃったんだよ。
ただ戦をするだけではなく、秀吉は頭を使って敵をねじ伏せるんだね。
うむ。
で、ここから秀吉は信長が築いてきた勢力を引き継いで、天下統一を成し遂げていくよ。
中国の毛利輝元、
北陸の上杉景勝、
東海の徳川家康、
奥州の伊達政宗…
なんかは外交で臣従させて、
四国の長宗我部元親、
九州の島津義久…
なんかは現地に乗り込んで戦い、屈服させているよ。
長宗我部元親も島津義久もかなりの勢力を誇っていたよね。
それぞれ四国、九州を統一してたんでしょ?
それでも秀吉には敵わなかったのかぁ…。
織田信長が築いてきたものが大きかったし、秀吉は最初っからチートモードで敵と戦えたんだよね。
勝ち進むほど戦力も膨らんでいくし、まさに無敵モードで突き進んでいったというわけさ。
なんかズルいなぁ。
信長が頑張ってきたのを、美味しいとこ取りしてる気がする。笑
ね。笑
あ。
あと、関東の北条氏政にいたっては、最後の最後まで秀吉に反抗したから22万もの大軍で攻め滅ぼしてるよ。
22万…!
規模がでかすぎて想像つかない!
なにはともあれ、秀吉は1590年に北条氏を滅ぼして完全に天下統一の偉業を成し遂げたんだ。
信長が死去してからここまでくるのに、なんと8年!
もともと秀吉は農民だったのに、武士になって織田家に仕えて、城持ち大名になって、天下人になって……
って凄い事だよね!
まさに偉人!って感じ!
ねー!
でもね、ここから豊臣秀吉はチョイと暴走しちゃうの。
秀吉は日本統一で終わらさず、海外の制圧にも着手し始めたんだ。
今の中国である『明国』を狙ったの。
で、秀吉は明国制圧の第一歩としてまず、朝鮮へと兵を進めた。
朝鮮出兵…有名な戦だね!
この朝鮮出兵は、結果的には大失敗に終わってるよ。
1592年と1597年の二度行われて、秀吉がこの世を去った事で、朝鮮出兵は中断されるんだけど、日本側も朝鮮側も何も得るものもなく、ただ戦に疲弊しただけ…みたいな、中途半端で無益な戦だったんだ。
日本統一だけで終わっとけば豊臣秀吉は英雄のままでいれたのに、遺恨の残る黒歴史を残しちゃったんだね。
徳川家康の戦国時代の歴史の流れを簡単に!
豊臣秀吉が亡くなってからは徳川家康の時代!
豊臣秀吉はね、
『ワシの息子・秀頼を跡継ぎとして、全国の大名達で協力しあって日本の政治を進めていってね!』
といったふうに遺言を残していたんだよ。
豊臣政権には『五大老』という役職があったんだよね!
豊臣政権のトップの人達!
そうそう、五大老は
徳川家康
前田利家
宇喜多秀家
毛利輝元
小早川隆景
上杉景勝(小早川の死後にメンバー入り)
…といったメンバーで構成されてたよ。
秀吉は豊臣家の名の下で、全国の大名達が協力しあって日本を統治していくのを望んでいたんだ。
けど、徳川家康が言うこと聞かなかったんだよね。
そう、秀吉の存命中は野心を封印してマジメに仕えていたのに、いなくなった途端に見事な手のひら返し!
豊臣秀頼が子供で何もできないなのをいい事に、
許可なく大名家同士で婚姻関係を結んではいけない
勝手に大名に領地を与えてはいけない
政治の事などは五大老で会議して決める
家康はこういった秀吉の遺言や豊臣政権の決まり事を無視し、自分の勢力を強めていったんだ。
徳川家康は日本トップの大大名…
他の大名達は、家康に不満があっても強く言えなかったんだよね。
そう。
唯一、前田利家は家康に意見できる立場にあったんだけど、秀吉の死からわずか1年後に病死してしまうんだ。
そこからはもう、徳川家康の独壇場。
いちゃもんつけて前田利家の息子を屈服させたり、越後の大名・上杉景勝に謀反の疑いをかけて潰そうとしたり…
と、暴走が止まらなかったのよ。
権力って怖いねぇ、好き勝手何でもできちゃう。
でも、豊臣家の武将達も好き勝手されてばかりではない!
そりゃそーだ!怒らなきゃダメだ!
昔から豊臣家に仕える石田三成ら奉行衆達は、打倒家康を掲げて一念発起したのだッ!!
天下分け目の『関ヶ原の戦い』が起こるのですね?!
そう、『関ヶ原の戦い』は全国の大名を巻き込んでの大規模な戦だったよ。
まぁ、関ヶ原の戦いについて語ると長くなっちゃうからとりあえず詳細はまた別の項目で…。
結果だけいうと、関ヶ原の戦いは徳川家康の勝利!
この関ヶ原の戦いで勝利した家康は、自分に敵対した大名達を処刑したり、領地を没収したり、流罪にしたり…と厳しく罰したんだ。
天下取りの邪魔になるやつらを徹底的に排除したってわけだ。
そう。
でも、この時点ではまだ徳川家康は豊臣秀頼に仕える大名の中で一番の権力者という存在にすぎない。
そこで徳川家康は関ヶ原の戦いから3年後の1603年に、『征夷大将軍』に任命されて江戸に幕府を開いたんだ。
戦国時代も終わりを迎え、江戸時代に突入するのですね!
で、征夷大将軍って??
征夷大将軍は天皇の認めた武家のNo.1 の地位。
日本を統べる天皇が
『徳川家康が日本に存在する武将達の中で一番の権力者ですよー!』
て正式に認めたって事だよ!
豊臣秀頼より完全に立場が上になったってわけ。
豊臣家は摂河泉に約65万石を治める一大名へと転落してしまったんだ。
天下人の地位から引きずり落とされたのか…
豊臣家の人達には凄い屈辱だったろうね。
そうだね。
特に秀吉の側室で、秀頼の母親である淀殿は凄くプライドが傷ついたみたい。
意地でも徳川家康の天下は認めない!って感じで、徳川と豊臣は不穏な関係が続いていくよ。
まぁ、無理もないよねぇ…。
そんでね、徳川家康も天下人になったとはいえまだまだ油断はできなかったの。
豊臣家には秀吉の時代に築いた莫大な資産もあるし、加藤清正や福島正則といった豊臣贔屓の大名も健在だった。
天下人になったとはいえ、本気だして戦でも起こされたら面倒くさい事になっちゃうわけよ。
うんうん。
そこで家康は長い時間をかけて、じわじわと豊臣家を弱らせていったんだ。
徳川家康は
鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス
の人だもんね。
秀頼に頭下げにくるよう促したり、
秀吉を祀る為だと言って、各地に寺を建てるよう促し散財させたり…
そうしてる間に加藤清正も死去したり…
で、しまいにゃ、豊臣家が作った寺の鐘にこんなイチャモンをつけたんだ。
『鐘に【君臣豊楽 国家安康】って書いてるけどどーゆー事?!家康の名前をブッた切ってる!不吉!』
って。
ひどい言いがかりだねぇ。
てか、それを言ったら『豊臣』の文字も逆さまで不吉…!ってなるよね。笑
ほんとそれ。笑
まぁ、明らかにこれは言いがかりなわけよ。豊臣家を潰すきっかけを作りたかったから、徳川サイドは無理やり理由を作ったんだ。
もちろん、豊臣家は
『そんなつもりじゃない!』
って釈明するけど、幕府は
豊臣秀頼は江戸に参勤すること。
秀頼の母親の淀殿を徳川に人質に出すこと。
豊臣家は大坂城を出て他国へ移ること。
…という条件を呑むなら許すよ〜って強気な交渉にでたんだ。
アチャア。
豊臣家はまんまと嵌められちまったってわけだ。
そう、さすがに豊臣家もこれには激おこ。
このまま家康の好きにさせてたまるかーっ!って戦準備を始める。
お金は沢山あるからね、豊臣家は全国から浪人を雇って10万を超える軍勢を作りあげたんだ。
で、徳川家康は幕府に逆心を抱く豊臣家を成敗する!って名目で大阪へと兵を進める…!
そして勃発したのが『大阪の陣』と言われる戦国時代最後の戦だよ!
真田幸村が活躍した事で有名な戦だね!
話すと長くなるかな?笑
長くなっちゃうから詳しい事はまた別項目で。笑
なにはともあれ、大坂の陣で徳川家康は豊臣家を完全に滅亡させたんだ。
これから300年近く、日本は徳川幕府のもとで平和な時代が続くことになるよ!
戦国時代、最後の勝利者は徳川家康!
織田信長や豊臣秀吉の天下はすぐに終わってしまったけど、先の事を見据えて徳川幕府の基盤を固めて300年も頂点に君臨し続けたのは凄い事だね〜!
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